小野篁(おののたかむら)

724年(神亀元年)、聖武天皇により「遠流の地」と定められた隠岐国。

小野篁は838年に隠岐に配流されたと言われています。

この物語は今から約1200年の昔、平安時代の出来事です。

篁は当時、唐の制度や文化を学ぶため、遣唐副使として3回目の出航準備をしていました。

その頃、正使である藤原常嗣の船が破損、常嗣は嵯峨上皇に篁の船と取り替えるよう願い出たと言われています。

篁は船の交換に反対し、自身の病気や母の世話を理由に乗船を拒否。

また、遣唐使の派遣を風刺する漢詩を作ったことから、嵯峨上皇は激怒!

篁を隠岐への流罪としました。

天武天皇が亡くなると「謀反の企てあり!」と大津皇子は死刑。

従者だった躬都良は、政変に関わった罪に問われて、隠岐に配流となりました。

島後(どうご)五箇村の高尾山中腹にあった横尾山寺に身を寄せ、2年目の冬。

躬都良はふとした風邪がもとで病の床につくことに。

恋仲にあった「比等那(ひとな)姫」の心を込めた介抱もむなしく、躬都良は23才という短い一生をこの島で閉じたと言われています。

躬都良の遺骨は比等那姫に抱かれて都に上り、躬都良の母に無事届けられたそうです。

島後(隠岐の島町)五箇地区にある岳山(だけさん)。横山寺はその麓にあります。

躬都良が身を寄せていた頃は高尾山中腹にあり、横尾山寺と呼ばれていました。

横山寺
横山寺

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横山寺にある鐘
横山寺にある鐘

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横山寺
横山寺

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はっきりとした場所はわかりませんが、躬都良と比等那姫はこの湾で遊んだとされています。

ある晩秋の日、比等那姫は母の里である島前西ノ島に遊びに行って3日経っても帰らず、躬都良はひとり寂しく重栖湾で遊び、姫を慕って和歌を残したそうです。 

 つま恋いて おもすの浜に わがおれば 

 泣く白しまの 波の音と聞ゆ

重栖湾
重栖湾

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重栖湾
重栖湾

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重栖湾
重栖湾

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重栖湾
重栖湾

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最愛の人に先立たれた比等那姫の悲しみはたとえようもなかったと言われています。

 

比等那姫は黒髪を断ち、これを躬都良の遺骸に添えて火葬を済ませ、かたときも遺骨の側を離れようとしなかったそうです。

 

海が幾分ないだ春早々、比等那姫は道澄僧都に伴われて那久の港を発ち、若狭の国を経て飛鳥の都にのぼったと伝えられています。

「那久」は海が「凪ぐ」ことからついた地名です。

那久港
那久港

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那久湾
那久湾

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那久の海
那久の海

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那久港
那久港

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躬都良と比等那姫が一日山に遊び、植えたと伝えられています。

 

樹齢約2000年、樹高約38m、胸高周囲11m。

島後三大杉のひとつで、 国の天然記念物に指定されています。

八百杉にはこんな言い伝えも残っています。

その昔、若狭の国(福井)から比丘尼がやってきて総社に参拝し、後々の形見にと杉の苗を植えた。人魚の肉を食べて老いることを知らない比丘尼は「800年たったらまたここに来よう」と言った。八百比丘尼杉から八百杉と呼ばれるようになった。

 

比等那姫が八百比丘尼であると言われています。

八百杉
八百杉

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八百杉
八百杉

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八百杉
八百杉

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八百杉
八百杉

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躬都良と比等那姫は壇鏡の滝でも遊んだとされています。

壇鏡神社の両側に高さ約40mの2条の滝(雄滝・雌滝)が流れています。

雄滝は、裏側から見ることができるので「裏見の滝」とも呼ばれています。

【注意事項】

道路の車両通行止めにより、2022年2月(予定)まで壇鏡神社および壇鏡の滝へ行くことはできません。​ご了承ください。

壇鏡の滝
壇鏡の滝

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壇鏡の滝
壇鏡の滝

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壇鏡神社
壇鏡神社

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壇鏡の滝
壇鏡の滝

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