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- 山城スポット -

隠岐の島町内15ヶ所で発見されている山城の跡。

山城は天守閣を持つ立派な城ではなく、自然地形を利用し、見晴らしの良い山の上に建てられ、周辺が見渡せることから監視や防衛のために使われていたようです。狼煙(のろし)を上げて近隣の山城と連絡を取り合っていたと考えられています。

​ちょっくらOKIでは次の三城をご案内します。

宮田城

くんだじょう

宮田城

鎌倉時代に築城。守護代となった隠岐佐々木氏が整備し、居城したと伝わる。

城の四方は崖が取り巻く攻めにくい地形であり、北側はかつて西郷港内湾に面し、敵が侵入し難く、物資の積み込みなどに好都合だったとされる。

有事にすぐに海に漕ぎ出せる戦略的な山城だったと考えられている。

室町時代、守護代は尼子一族へと変わり、隠岐國の領主となった尼子一族は本拠地を国府尾城に移したが、宮田城は引き続き、城塞としての機能を持っていたとされる。

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国府尾城

こうのおじょう

国府尾城

南は西郷湾に面した交通の要塞、東側・北側は八尾川に囲まれる天然の要害。

隠岐佐々木氏はここに国府尾城(甲ノ尾城)を作り、清政の時に移城、本拠地とする。国府尾城の頂上部からは宮田城の主郭が望め、狼煙などを使った通信網が形成されていたとされる。

清政は隠岐島後を統一後、隠岐全土を支配。以後、豊清、為清に伝えたとされるが、隠岐佐々木氏内に後継者争い・内部抗争が起こり、為清の子少補(しょううの)五郎を最後に、国府尾城は毛利氏の手に落ちたと伝えられている。

勝山城

かつやまじょう

勝山城

島後の中心部に築城された勝山城は、その山頂から本城である国府尾城を捉え、五箇あるいは武良地区への睨みを効かせる役割も持っていたとされる。

天文元年(1532)の島後合戦時、尼子氏の援助で隠岐を平定した佐々木為清。

その恩に報いる為、隠岐佐々木氏は勝山城を築城、尼子勝久の居城として提供したと言われている。

尼子氏の家臣であり、山陰地方の武将、鹿介として知られる山中幸盛は、月山富田城(がっさんとだじょう・安来市)の落城以来、劣勢になった尼子氏の再興を画策し、体制を立て直すため、勝久と但馬から隠岐に渡ったとされている。

勝山城で力を蓄え、体制を立て直した勝久らは永禄12年(1569)に隠岐を出発。

島根半島の千酌(ちくみ)に上陸し、毛利氏と対決したが敗れたと伝わる。