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小野篁(おののたかむら)

724年(神亀元年)、聖武天皇により「遠流の地」と定められた隠岐国。

隠岐に最初に流された人物は「柿本躬都良」である、と言われています。

残された文献がないので、伝説であるとも.....。

この物語は今から約1300年の昔、飛鳥時代の出来事です。

百済の国から来朝した高僧「道澄僧都(どうちょうそうず)」は天武天皇の命を受けて、金光明経(こんこうみょうきょう)の講義をしていました。この聴講生の中にいたのが「大津の皇子」と「躬都良麿」です。

 

万葉集の歌人として知られる「柿本人麻呂」。

その息子である躬都良は、都の神童と呼ばれるにふさわしい容姿端正な美少年だったとか。

そのため、大津皇子の従者として特別に宮中講義を聴講していたそうです。

天武天皇が亡くなると「謀反の企てあり!」と大津皇子は死刑。

従者だった躬都良は謀反の計画、相談に加わったとして隠岐に遠流となりました。

五箇村高尾山中腹にあった横尾山寺に身を寄せ、二年目の冬。

躬都良はふとした風邪がもとで病の床につくことに。

恋仲にあった「比等那(ひとな)姫」の心を込めた介抱もむなしく、躬都良は23才という短い一生をこの島で閉じたそうです。

躬都良の遺骨は比等那姫に抱かれて都に上り、躬都良の母に届けられたとされています。

島後(隠岐の島町)五箇地区にある岳山。

横山寺はその麓にあります。

躬都良が身を寄せていた頃は高尾山中腹にあり、横尾山寺と呼ばれていました。

はっきりとした場所はわかりませんが、躬都良と比等那姫が遊んだと言われています。

ある晩秋の日、比等那姫は母の里である島前西ノ島に遊びに行って3日経っても帰らず、躬都良はひとり寂しく重栖湾で遊び、姫を慕って和歌を残したそうです。 

 つま恋いて おもすの浜に わがおれば 

 泣く白しまの 波の音と聞ゆ

最愛の人に先立たれた比等那姫の悲しみはたとえようもなかったと言われています。

 

比等那姫は黒髪を断ち、これを躬都良の遺骸に添えて火葬を済ませ、かたときも遺骨の側を離れようとしなかったそうです。

 

海が幾分ないだ春早々、比等那姫は道澄僧都に伴われて那久の港を発ち、若狭の国を経て飛鳥の都にのぼったと伝えられています。

「那久」は海が「凪ぐ」ことからついた地名です。

躬都良と比等那姫が一日山に遊び、植えたと伝えられています。

 

樹齢約2000年、樹高約38m、胸高周囲11m。

隠岐三大杉のひとつで、 国の天然記念物に指定されています。

八百杉にはこんな言い伝えも残っています。

その昔、若狭の国(福井)から比丘尼がやってきて総社に参拝し、後々の形見にと杉の苗を植えた。人魚の肉を食べて老いることを知らない比丘尼は「800年たったらまたここに来よう」と言った。八百比丘尼杉から八百杉と呼ばれるようになった。

 

比等那姫が八百比丘尼であると言われています。

躬都良麿と比等那姫が遊んだとされる壇鏡の滝。

壇鏡神社の両側に高さ約40mの2条の滝(雄滝・雌滝)が流れています。

雄滝は、裏側から見ることができるので「裏見の滝」とも呼ばれています。

【注意事項】

2020年8月7日の大雨の影響により、

●2021年7月末まで

乗用車(レンタカー・タクシー)程度の車両であれば通行可能ですが、中・大型バスの通行はできません。

●2021年8月1日(予定)  から2022年2月まで

道路の車両通行止めにより、壇鏡神社および壇鏡の滝へ行くことはできません。

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